が、しんだ。



幸村の口から発せられた言葉を理解するのに、俺は数分要した。意味がわからない。 が、しんだ?やめてくれんか、質(たち)の悪い冗談は。けれど、そのときの幸村の 顔は今までに見た事ないくらい、冷たい顔だった。それが、決して冗談ではないのだ ということを俺に分からせる。空が、しろい。
















いつもどおりの日曜。寒かろうが休みだろうが、我が立海テニス部の練習が なくなることはない。気だるげな気持ちで向かった、いつもどおりの部活。

もう慣れてしまったメニューを着々とこなし、少し早めの休憩をとっているところだった。 幸村に、呼ばれた。どうせ「動きが悪い」とかそんな感じのお説教を食らうのだろうと、 のらりくらりと幸村のもとへ向かう。だが、そこに居たのは見た事もないような顔をした 部長さんだった。はて、俺は何かしただろうか。幸村を怒らせるようなことは、何もしていないはず。 一体何なんだ、と思い目の前の人物を見れば、表情は強張らせたような、そんなような。 怒っているような、悲しんでいるような、何とも言えない表情をしていた。 その瞬間、嫌な感じはした。何故かは分からないが、俺の本能が何かを告げたのだろう。 「これは、とてつもなく悪い予感だ」と。

そうして幸村から発せられた言葉は、さっきの一言だった。消え入るような、声で。



は、俺の彼女だ。つい最近付き合い始めた、俺の彼女。 1年生からずっと同じクラスで、いつのまにか俺の世界には必要不可欠だ存在になっていた。 いつも俺の傍にいて、笑っていた。そんな彼女にいつしか俺は心を寄せ、 恋慕という感情を持つようになった。自覚してからは、の一語一句に一喜一憂する毎日。 の傍に居ることができれば、それだけでいいと思っていた。それなのに、俺の中の何かが それだけじゃ足りないと主張してきて。次は、の大切なひとつになりたくて。

数週間前、俺はに告白をした。俺が「好きじゃ」といえば、「私も」を笑ってそう言った 。あのとき、俺はどれだけ幸せだっただろうか。ペテン師といわれる俺も、 惚れた女の前では見れたもんじゃない。それでもと過ごす時間は、とてもじゃないが 一言では言い表せないくらいに幸せで、愛しいものだった。いや、愛しい。 過去形なんかでは、ない。



どれくらい思考の海へ沈んでいたのだろうか。頭上から、「仁王」と呼ぶ声。 はっ、として顔をあげれば先ほどの顔と何ら変わらない幸村がいた。

そうだ、俺は聴かなければならない。一体全体、なんのことだと。 質の悪い冗談はやめてくれ、冗談でもそんなこと言わんでくれ、と。 そう言いたいのに俺の喉は異常に乾いていて、発することができたのはたった一言。





「・・・ど、ういうことじゃ」





俺がそう言えば、目を臥せる幸村。やめろ、そんな顔をするな。分かってしまうだろう。 そうして、目の前の人物は躊躇うかのように口を開きかける。瞬間、その様子にひどく俺自身の 警告が鳴り響いた。この先の言葉を聞いてはいけない。聞きたくない。 俺が問いたというのに、俺自身は幸村が紡ごうとしている言葉を拒む。やけに鼓動が、 早くなっている。動悸が激しい。全身の血液が逆流しそうだ。

だが、そんな俺のことなど知らないとでも言うかのように、幸村は言葉を紡ぐ。





「いまさっき、のお母さんから電話があったんだ」

「・・・なんで」

「何回も聞くなよ。俺だって、まだ信じられないんだ。こんなこと、あるはずがない」

「、いつじゃ」

「・・・ついさっき。飛び出して、車に轢かれそうだった子どもを助けたらしい。
 ほんと、馬鹿な子だよ、は。いつも他人のことばかりでさ・・・っ」





そう言って、幸村は顔をふせる。その声は震えていて、肩も小刻みに震えていた。
どういうことだ。ついさっき、幸村にのお母さんから電話があって。そもそも何で 幸村の電話にかかったんだ。ああ、そういえば幸村とはイトコだと言っていた。 それで、は子どもを助けて、轢かれそうな子どもを。いかにもらしい。 彼女はいつでも他人を優先させて、自分のことは後回しだった。そんなところも含めて、 俺は彼女が好きだ。だが、そのあとどうなった?どういうことだ。





「・・・どこじゃ」

「・・・俺が入院してた病院だよ」





ほとんど無意識に、言葉が出ていた。幸村から場所を聞けば、俺の足はその瞬間に 動く。今までに出したことのないようなスピードで、駆け出した。

テニスコートを駆け、運動場を抜ける。真田の怒鳴り声とか、部員達のざわめきとかが 背中の後ろから聞こえるが、そんなこと気にも留めない。 急に走り出して、あまにりにも必死だからなのか足がもつれる。けど、そんなこと 気にしてる場合じゃない。はやく、はやく動かんか俺の足。 何も考えれなくて、ただただのもとへ一刻も早く向かわねばと俺の足は動く。 街を走り抜け、ただ必死に病院へ走る。どうやってこの道へ来たのかは分からない。 無我夢中で、必死に走る。通りすがる一般人が俺に好奇の目を向けるが、そんなものは 気にならない。部活中だったから今の俺の格好は、橙色が目立つユニだ。運動するから、と まだ半袖とハーパン。走れば、冷たい空気と風が肌にあたる。 耳が痛い。きっと今の俺の耳と鼻は真っ赤なことだろう。吐き出される息は白く、 指先はかじかんでいる。頭が真っ白だ。







病院に辿りつけば、すぐさま受付での場所を聞く。受付の看護師がえらい驚いていたが、 それもそうだろう。長距離を全力疾走してきたものだから、息はかなり上がっていて肩で呼吸してる 状態だった。その上、顔は必死の形相で物凄い剣幕で「は?!」と聞く のだから。周囲の人間もギョっとしていた。 だけど、そんなこと気にする余地など俺にはない。看護師から居場所を聞けば、 すぐさま向かう。「院内はお静かに!」と途中誰かに怒鳴られたが、そんなこと知らない。 俺はすぐに、のもとへ向かわなければならないのだ。

どうやって、どういう道で病院へ来たのかは覚えていない。ただ、必死だった。 テニス部だというのに、俺の呼吸はハアハアと苦しいものだ。心なしか、喉がヒューヒューと 言っている気がする。 。どうか、冗談だと笑ってくれんか。今なら笑って、俺も「そうか」と許せるから。

















やっとの思いで、辿りついたのもと。俺は何も考えなしに、その扉を開く。 そこには数人の人がいて、ベッドを囲んでいた。現れた俺に目を向けたその中のひとり。 あ、のお母さんか。何回か、会った事がある。とても穏やかで、優しい人だった記憶が ある。その頬には、涙が伝っていて。病室には、聞いていて居た堪れないような泣き声が響いていた。


静かに、ベッドの方へ近寄る。 さっきまで俺の呼吸はあんなにも荒かったのに、今では俺は息をしていないかのようだ。 それくらい、衝撃的だった。

ベッドに横たわっているのは紛れもなく、で。ずっとずっと俺が見てきて、 俺の傍で笑っていた。昨日の部活で、一緒にいた。その肌はいつも以上に白くて、 唇が少し青かった。 ふと、その手に触れる。触れてみれば、その冷たさに息を呑んだ。まるで陶器でも触って いるかのような冷たさだった。昨日繋いだ手は、あんなにも温かかったのに。 いつも可愛らしく染まっていた頬も、いまはただ白く。 それなのに、の口元は確かに、僅かだが、弧をえがいていた。





、ほれ、何しとるんじゃ?こんなとこで寝て。俺じゃよ、起きんしゃい」





俺はお前さんの笑った顔が、なにより好きなんじゃよ。だから、笑ってくれんか。 そう言って手を握るけど、いつもみたいに握り返してくれるわけではない。いつもみたいに、 はみかみながら「雅治」って笑ってくれんか。 「仁王くん、もうやめて。はっ・・・」と、のお母さんが言う。は? 肩を振るわせるのお母さんに、寄り添うように立つ男。ああ、のお父さんか。 そういえば初めて会ったかもしれない。まだ何も挨拶しとらん。のう、



の伏せられた睫毛が、震えることはない。

、どういうことじゃ。まだ、俺ら何もしとらんじゃろ?デートだって、まだしてない。 お前さん、見たい映画があったって言っとったのう。一緒に見に行く約束したじゃろ? 行きたいところ沢山あるって、だから俺が連れて行ってやるって。 俺、まだお前さんに言っとらんこと沢山あるぜよ。それに、がいなくなったら 誰が俺の試合を応援するんじゃ?お前さんが居るから、俺は勝てた。 逝くな、逝くな。まだ、早すぎるじゃろ。逝かんでくれ、頼む。





「っっ・・・!!」





。愛しいその名を呼ぶが、返事が返ってくることはない。 こんなに人を好きになったのは、お前さんだけだというのに。なぜ、俺の前から消える。 声を聞かせて、笑ってみせてくれんか。その声で、俺の名を呼んでくれんか。

冷たくなった彼女の手を握る。指を絡ませる。ポタ、と白いシーツに一滴こぼれた。



外では風が吹いていなくて、どこまでも白く遠い空だった。 窓の外ではいつのまにか白い雪が降っていて、窓からもれる白い明かりがを照らす。

俺の世界の光が、閉ざされた。












冬空に しにゆく

( それから数日後、俺は姿を消した )














きみのいない世界なんて、俺の生きる意味などない

2012.12.09 UP Photo by 「戦場に猫」